本記事の執筆依頼を頂いてから、すぐに他の未踏クリエーターの記事を読ませて頂きました。そうそうたるメンバーの素晴らしい記事に圧倒され、何を書こうかと2ヶ月間悩み、ようやく今記事を書き進めています。誰もが知る研究者でも、スタートアップ企業の社長でもない、いわゆる普通のサラリーマンの私に執筆の機会を与えて下さった理由を考えました。その理由の1つは、私が情報工学の専門家では無く薬学出身者である事だと思います。システムプログラムをバリバリ書くようなハッカーと同列のプログラミング能力をもっているわけではありません。2006年度上期未踏ユースにて、その当時私のプロジェクトマネージャー(PM)であった竹内郁雄先生が下さった評価コメントをよく覚えています。以下に一部抜粋しました。
"藤君には今後ぜひ、薬学とコンピュータの橋渡しをする活躍をしてほしい。スーパークリエータの称号はそのための鞭だとも思っていただきたい。無理難題かもしれないが、よろしく。"
この言葉を胸に、薬学とコンピュータの橋渡しをするべく、今も走り続けています。
まず始めに私の専門分野である創薬について説明したいと思います。新薬が出来るまでには、
- 薬の候補となる分子を見出すための探索研究
- 動物や細胞を用いて薬効や安全性を調べるための前臨床試験
- 前臨床試験を通過した薬の候補(治験薬)のヒトに対する有効性や安全性を確認するための臨床試験(治験)
を経る必要があります。これら一連のプロセスを創薬と言いますが、1つの新薬を上市(製品として市場に出すこと)にさせるまでには承認審査の期間も含めてトータルで9~17年もの長い年月と数百〜千億円規模の巨額の研究開発費用を必要とします。また、薬の候補として研究を始めた分子が新薬として世に出る成功確率は約3万分の1と言われており、創薬の難しさを想像頂けるかと思います。
創薬におけるこの長い開発期間と巨額の開発コストをいかにして削減できるか、創薬の成功確率をいかにして向上させられるかが、コンピュータ屋に求められていることです。私は主にコンピュータ上で分子シミュレーションや機械学習のアプローチを駆使し、創薬の初期段階である探索研究において、疾患の原因となる遺伝子やタンパク質に作用する薬の候補分子を見出す仕事をしています。最近では人工知能技術の発展に伴いAI創薬と呼ばれることがありますが、ディープラーニングを始めとする先端技術の活用が創薬でも進められています。昨年の米辻さんの記事「機械学習の未来」にも書かれていた通り、2012年にImageNet主催のILSVRCという世界的な画像認識コンテストにおいて、トロント大学のチームがディープラーニングを用いたことで、既存の手法を大きく引き離して勝利したのがディープラーニング流行の火付け役となりました。創薬の分野においてもちょうど同じ年に、機械学習コンテストKaggleにてMerck Molecular Activity Challengeという化合物の活性予測精度を競うコンテストが行われました。そのコンテストにおいても、やはりトロント大学のチームがディープラーニングを用いた手法で優勝を収めました。いずれの事例も、ディープラーニングの生みの親の1人であるトロント大学Geoffrey Hinton教授の教え子が収めた成果であるというのが、驚くべきポイントです。創薬の専門家でなくとも、課題解決に必要なデータさえ集めることができれば、機械学習エンジニアでも薬の候補分子の設計ができる世界になってきたということだと思います。
私はICT関連の最新技術をなるべくキャッチアップしながら、創薬の分野で活用できるシーンが無いかと日々考えています。そしてアイデアを思いついたら、とりあえずやってみるということを大切にしています。やってみたら上手くハマったという事例を1つ紹介したいと思います。ディープラーニングの課題の1つにブラックボックス問題がよく話題になると思います。人工知能がどんな根拠で判断に至ったのかを説明出来ないという問題です。ディープラーニングを使っている限り、創薬の分野でもこの問題は付きまとってきます。そこで注目を浴びているのが「説明可能な人工知能(Explainable AI, XAI)」です。このXAIについて調べていた時に出会ったブログ記事が、お好み焼きとピザの画像分類をディープラーニングで実施し、画像分類モデルが画像のどこに着目して両者を区別しているかを可視化したというものでした(http://blog.brainpad.co.jp/entry/2017/07/10/163000)。この記事を見た時に、新たなアイデア・疑問が浮かんだのです。化学構造式の画像を学習させたら、人工知能はいったい画像のどこを見るのだろうかと。化学構造式と聞くと、いわゆる亀の甲と言われる六角形のベンゼン環を思い浮かべる方が多いと思います。化学構造式は化学者にとっての共通言語であり、化学構造式1つには反応性や毒性など多くの情報が含まれています。創薬化学者は過去の経験・知識を基に、化学構造式からそれらの情報を読み解き、有効性・安全性の高い分子の設計を進めています。ディープラーニングを用いて化学構造式の画像を学習させれば、熟練の創薬化学者と同様に、化学構造式の解読能力を有する人工知能が出来上がるだろうと思い立ち、早速やってみました。結果としては、既存の手法と遜色ない精度の判別モデルを作成することが出来ました。既存の手法では画像認識の分野と同様に、化学構造式から得られる特徴量を設計して機械学習にかけていましたが、化学構造式の画像だけで判別モデルを作れたというのが面白いポイントです。さらには、XAIの技術を使って人工知能が画像のどの領域に着目しているかを可視化したところ、創薬化学者が着目している化学的に意味のある部分を人工知能もちゃんと認識していることが明らかになりました。とてもニッチな研究領域かもしれませんが、まだ誰もやっていないところです。派手ではない、「地味。だけどすごい」そんな未踏な領域に今後も挑戦し続けていきたいと思います。
図2. 人工知能は化学的に意味のある部分を認識していた
最後に製薬企業の未来についても触れておきたいと思います。これまでの製薬企業の役割は医薬品を供給し、患者さんの病気の治療に貢献することでした。昨今「Beyond The Pill(薬の先に)」と呼ばれることがありますが、未来においては医薬品の枠にとらわれることなく、患者さんの価値となる医療ソリューションを提供することになると思います。すなわちそれは、病気になる前の予防・診断、治療後の予後管理、はたまた薬に頼らない治療法の提供といったことも考えられます。製薬企業としては未踏の領域に挑戦することになります。海外のメガファーマでは既にこうした取り組みを進めているところがあります。例えばノバルティスを例にとりますと、2014年にGoogleとの提携を発表し、涙で血糖値を測定可能なスマートコンタクトレンズの開発に着手しました。また2016年にはMicrosoftと提携し、Kinectを活用して運動機能障害を評価するためのシステムの開発を進めたようです。このようなセンサーデバイスを使った例の他に、最近は治療アプリの開発を進める企業が注目を浴びています。アメリカではすでに2010年にWelldoc社の「BlueStar」という糖尿病患者向けの治療補助アプリが医療機器として承認されています。日本においては、昨年10月にキュア・アップ社が国内初の治療アプリ(禁煙治療アプリ)の治験を開始しました。今年6月にはサスメド社が不眠症治療用アプリの治験を開始しています。今後益々このような動きは加速されてくると思います。このようなICT技術を活用した医療ソリューションを作っていくためには、エンジニアと医療関係者との異分野交流が必要不可欠だと考えています。
本記事を通して創薬のような異分野においても、ITエンジニアの活躍の場が存在することを感じて頂けたら幸いです。もしアイデアをお持ちのエンジニアの方がいらっしゃいましたら、一緒に創薬・製薬企業の未来を変えてみませんか?今後もエンジニアと製薬企業との橋渡しとなり、新薬の創出、そして新たな医療ソリューションの創出に貢献していきたいと思います。
藤 秀義
アステラス製薬株式会社
2006年度上期未踏ユースに「SMILES記法を利用した薬物設計支援ツールの開発」で採択、そして未踏スーパークリエータに認定される。千葉大学大学院医学薬学府博士課程修了後、アステラス製薬株式会社に入社し、コンピュータに基づく薬物分子設計業務に従事。創薬へのAI活用を進めている。