未踏人材インタビュー

実装なき思想は、もう要らない。

落合陽一 氏
メディアアーティスト.筑波大学 准教授・学長補佐,Pixie Dust Technologies.Inc CEO.

筑波大学にてメディア芸術を専攻したのち、東京大学大学院にて博士号を取得。経済産業省のIPA(情報処理推進機構)が突出した若い逸材を発掘・認定する未踏事業にて、「未踏スーパークリエータ」に認定される。2015年より筑波大学図書館情報メディア系助教 デジタルネイチャー研究室主宰。同年Pixie Dust Technologies, Inc.を起業しCEO。著書に、「魔法の世紀」(PLANETS)「これからの世界をつくる仲間たちへ」(小学館)「超AI時代の生存戦略」(大和書房)。

代表作の中に「Fairy Lights in Femtoseconds」がありますね。

Fairy Lights in Femtoseconds

落合:これは、空中に光で三次元の絵を描くことができるものです。これは触ると感触があります。つまり、三次元空間で物体を自由に表現することができるようになるということです。技術的には空気分子をプラズマ化することで実現していますが、本来プラズマというのは触れるとやけどや感電しかねない危険なものなのです。ところが、フェムト秒レーザー(*フェムトは10の-15乗)を使うことによって、直接触っても人体に影響なく実現できるのです。

これはアートだけの話ではありません。これまで低解像度なメディアや、人間の感覚器性能といった制約によって自ずと限界があった世界を解放しているのです。僕が「デジタルネイチャー」と呼ぶこれからの世界では、コンピュータによって物質世界をプログラミングできるようになります。もう人間の限界に合わせることなく、自然界そのままを表現できるようになるのです。しかもそこにディープラーニングなどのEnd toEndのAIが入ることで、人間の解釈や理屈を抜きにして、「こと」と「こと」が直接繋がるようになるんです。そこでは、人と、自然とコンピュータとが垣根なく存在する世界観であり、あらゆるものが相転移する計算機による自然感こそがデジタルネイチャーなのです。

これは、僕が最近テーマとしてきた「映像でも物質でもないものをどう作るか」に対する、現時点でのひとつの答えです。Fill the gap between computer graphics and real world.といっているのですが、映像でも物質でもないというパラダイムは絶対にあります。これは決してマテリアライズではないのです。マテリアルはマテリアルであり、コンピュータやソフトウェア的な考え方はそれほどマテリアルそれ自体の物質性は好きではありませんから。普通に考えると、「物質の映像化」と「映像の物質化」のどちらかのアプローチになってしまいがちなのですが、そうではありません。あくまでも、Fill the gapだということです。

次は、空中にスピーカーを作りたいと思っています。「スピーカーの機能を持った空気」をどうやって作るかということに興味があります。今は物質を使って音を鳴らしていますが、音を出すために空気を振動させるというのは原始時代から同じです。ただ、世界を見わたすと地鳴りも雷もあるわけで、熱振動などのように違う振動方法はたくさんあるはずです。そういったものをスピーカーとしてどのようにデザインするかを考えています。

それに加えて、これまでは人間がコンピュータをどう使うかがポイントでしたが、これからはコンピュータが人間をどう使うかのほうが重要なパラダイムなので、それをやっています。今は人間がキーボードを叩いてコンピュータで音を鳴らしますが、逆に、コンピュータが人間を鳴らすにはどうすればいいのかといった発想です。

落合さんがこういうことをやろうと思ったのはなぜですか。

落合:中心にあるのは、決定的にコンピュータです。僕がコンピュータを手に入れたのは8歳のときです。まさにwindows95が出た年に、初めて触ったPCでコンピュータグラフィックスをやりはじめました。僕は父が作家で、母が音楽プロデューサー、そして4歳のころから隣家の画家に絵を習うという育ち方をしてきました。そして小学校4年生頃のときは芸術家か研究者になりたいと思っていました。「メディアアーティスト」と名乗っている現在につながっているのかもしれません。

そして2007年頃に、今でいうIoTの分野をやろうと思い、研究していました。僕は、経産省のIPAが行っている未踏事業で、「未踏スーパークリエータ」に選ばれていますが、未踏でも「電気が見えるデバイスとソフトウェア」をテーマにしていました。その当時はIoTという言葉やメーカーズムーブメントもまだメジャーではなかった頃だったので僕がやる意味があったのです。当時は、未解決なユーザーインターフェース問題は何かということもすごく気になっていましたから。でも今のIoTは、明らかにフロンティアがやる仕事ではなくなっている気がします。僕はアーティストであり、アカデミアの人間なのでビジョナリーでフロンティアでないと意味がないのです。そこで、「どうすればコンピュータグラフィックスと物質の垣根を失くせるか」といったことをテーマにしました。「どうすれば人間から切り離された、ほぼ魔法みたいな計算機を作れるか」ということです。これを僕らは「デジタルネイチャー」と呼んでいますが、「魔法みたいな計算機」を作るようなことこそが、ビジョナリーとしては正しいチャレンジだと思ってやっています。こととことで問題が解決される。魔術化されているから間のことは分からなくて良い、人間の理屈が介在しない機械をどう作って、それを自然の一部だと捉えられるか。だって、我々は自然現象の理解に務めはするものの、自然現象を取り決めはなぜこうなっているのかを疑問に思うことはないからです。メカニズム以上の思惑は想定しない。

ビジョナリーがやるべき仕事かどうかと、それがビジネスになるか、つまり「経済合理性」があるかについてはどう考えますか。

落合:実は経済合理性はとても重要で、この問題を解けない技術には限界があると思います。経済合理性の問題が解ける技術は、金持ちの出現によって大抵ブレークします。ある程度勝手に育つのです。
一方で、経済合理性のない技術には、インパクトが決定的に重要です。よって「経済合理性のない技術を、インパクトによって経済合理性のある技術に変える」ということが一番大きいブレイクスルーです。経済合理性がある技術はインクリメンタル(積みあがっていく)ですから。経済合理性のない技術はそうではないので、イノベーションが必要なのです。いかに皆がやりたくなるようなインパクトを与えるかがイノベーションに向けての最重要課題です。

経済合理性とインパクトの関係性この図でいうと、右上にいくにはインパクトとパブリシティが重要です。iPS細胞にしても最初は経済合理性ゼロですから。インパクトとパブリシティがうまくいったので、用途も含めて開発が進みつつあります。それがイノベーションです。ということで、まずは経済合理性のない技術にチャレンジしなければいけません。そして、ビジョナリーがそこにインパクトをもたらす。難しいですが、そこが一番楽しいです。

コツコツやっているだけでは、技術が世に出てインパクトを持つには至らないということですね。

落合:21世紀はキャラクターの時代です。インパクトを持ち、経済合理性を克服して、右上に出なければいけません。それには従来のやり方では全く無理です。絶対にビジョナリーが必要であり、ビジョンに基づいたチームが必要です。これが大企業だとビジョンがなくてもお金儲けのエンジンがうまく回って生きていけますが、チームは個人の集まりなので強烈なビジョンが必要です。僕は物を考えるもの得意ですし、手を動かすのも得意ですが、さすがに1人では回りません。ビジョンがあれば、チームで右上にいける。イノベーションが実現できるのです。やりたいと言って動き続ければ、最初の芽までは出ますから。芽さえ出れば、そこから先は金持ちを見つけるか、もしくはパブリシティを稼げれば一気に変わる問題です。そこはテコの原理です。

今の日本には、肝心なビジョナリーが足りないと感じますか。

落合:ビジョナリーだけでなく、手が動く人も足りません。結局は、「手が動くビジョナリー」が最強なのです。ビジョナリーが少ないのか、手が動く人が少ないのかというと、うーん、どうでしょう。どちらも少ない気がします。経験を積めば手は動くようになりそうなものですが、そうでもありません。ビジョナリーが要求する手の動かし方はインクリメンタルなものではなく、全く新しいことだからです。サーバサイドが書けるからイノベーションが起こるわけではありません。「そのサーバの機能を植物細胞で実装できる?」「神経細胞に乗るサーバ作れる?」と言われて、「できる」と言えるエンジニアは限られます。そういう話です。

ビジョナリーの仕事はコンセプトとチームビルディングだけではないということですね。少なくとも自ら手を動かしてプロトタイプまでは持っていかないと。

落合:ビジョナリーは手が動かなければいけません。ただ、プロトタイプまでつくることは簡単ではないですけどね。そこまでできてしまえばあとはできますから。そこまでがすごく大変なのです。大変だからこそ、ビジョナリーがやるしかありません。ひたすら実験したり、ひたすら説得したりしてガリガリ実験をやっていくことです。僕はよく自分の研究室で「ガンダムのシャアになれ」と言っています。シャアは総帥ですが、一平兵としても最強です。ガンダムのかっこ良さはそれによって成り立っています。ミュージシャンも同じです。ライブになればチームに人が増えてきますが、コアなバリューは本人たちが徹夜でこもって死ぬような思いで作っていますから。

テスラモーターズのイーロン・マスクが「素晴らしいプロダクトも持たずに素晴らしい会社をつくろうとしている人たちがあまりにも多いのにいつも驚く」といったことを思い出しました。

落合:20世紀はドイツ人に振り回されたと思っています。マルクスやマクルーハンなどです。1945年から1989年までの長い冷戦期間は、ほぼカールマルクスの実験場だったといえます。マルクスは考え方によって随分、人を殺しています。メディアについて言えば、マルチメディアの時代というのは、基本的にはマクルーハンが言ったようなメディア論の世界です。リュミエール兄弟が映写装置を発明したことが20世紀における最も重要なプロパカンダ手段であり、プロパカンダは国家為政に最も関わるところでした。それがインターネットによって今、崩壊しようとしているのが21世紀の本質的な枠組みです。デザインも人の認知論もそうです。インターネットはほぼ自然発生的に誕生しています。ティム・バーナーズ=リーがWorld Wide Webを作ったように、もしくはアーパネットがインターネットになったように、情報の流れというのはほぼ自然に存在してきました。そこには、思想がありません。だからこそ、「どうすれば21世紀の思想をつくれるのか」ということが、僕にとってはとても重要なテーマです。マルクスより面白いことを思いつけばいいのです。どうすればその考え方を実現し、人にインストールできるのかということにかなり興味があります。その手段として今、人と自然とコンピュータが垣根なく存在する、デジタルネイチャーに取り組んでいるわけです。

「21世紀の思想をつくる」の実現に向けて、デジタルネイチャーを具現化してみせるという立ち位置もあれば、哲学の側に立つということもありうるかと思うのですが。

落合:脱構築論のような話ですね。これは極めて重要で、難しい問題です。19世紀哲学は実装を伴いませんでした。ニーチェは実装ができなかったから限界があったのです。ニーチェがもしワトソン(※IBMの人工知能)を作っていたら、より強固だったと思います。ニーチェがワトソンを作ったうえで「人間というのはほぼ人工知能と区別がつかない」と言い、その上であの本を出していたら、かなりソーシャルインパクトがあったと思います。物を伴わない哲学はプレゼンテーション能力が極めて低いので、生態系をつくれません。生態系をつくるには、物にして見せるのが一番です。「実装なき哲学」はもう要りません。例えば黒川紀章がメタボリズムについて語ったり、ザハがコンピューテーショナル建築について語ったりすればインパクトがありますが、それは物が伴っているからです。

たとえばザハの建築をみると、「21世紀はどうすれば重力から自由になるか」というテーマに向き合っているように見えます。コンピュータが構造計算をしなくては絶対に建たないような建物がたくさんあるからです。コンピュータが建築家にとって何を可能にしたかというと、重力の支配を失くしたのです。それが最もインパクトがあったことです。実装が伴ったおかげで、思想が広がっているという順番だと思います。「重力から自由になれるでしょ」と言われても人は簡単に理解できません。でも、ザハが設計した訳の分からないフォルムの建築物が実際に建つことで、「ああ、そういうことなのか」と分かります。もちろん物は浮きませんが、われわれが頭の中で制約的にある「危なそうな構造」というものの意味はなくなるわけです。今は、子どもが建物を描くと底面の方が広い絵をきっと描くでしょうが、そのうち逆三角形や、とんでもない形の建物を子供が描いて、それが実現する時代が来ます。思想として「重力から解放する」と言われても、子どもはタンジブルにイメージできませんが、物が持つ力、実装が持つ力は、決定的に大きいのです。

コンピュータの進化によって、より思想に実装を伴わせることができるようになったということですね。

落合:人間の器官の限界に縛られてきたものが解放される過程でさまざまなことが可能になります。たとえば人間がいかに映像にしばられているか。テレビは人間の生首を裏返しにしておいたものに過ぎません。なぜかというと、44.1キロヘルツでサンプリングしたものを聞いていますが、人間の耳は21キロヘルツぐらいしか聞こえません。視覚にしても同様です。人間の感覚だと、時間解像度の周波数は60ヘルツ程度です。ところが本質的な物理空間というのはとても60ヘルツで見られるものではないですし、44.1キロヘルツよりはるかに多量な情報が含まれているはずです。ところが人間は自分たちの価値観でデータを切り捨て、マルチメディアを規定しています。あれはコンピュータではなく、あくまで人間側の事情です。コンピュータにとっては192キロヘルツで音を録ってもいいですし、画面が1秒間に2000回書き換わってもいいのです。本質的にはもっとナチュラルなはずなのに、そうならないのには理由が二つあります。一つは経済合理性、もう一つは価値観です。「レコードよりもCDの方が人間にとって温かみのある音が聴ける」といったような。経済合理性は、たぶんムーアの法則でぶっ飛ぶので、あとは価値観の問題です。それは思考による制約に過ぎません。人間の思考は今まで内在的にしか存在しませんでしたが、今、インターネットによって、われわれはやっとそれを手にしたわけです。これからはものづくりをする人間がマルクスやニーチェを読んでいて当然です。そのうえで彼らをどう踏み越えるかを言えてこそ、初めてバリューがあるといえます。

思想に実装を伴わせることで、人に伝えられるものが一変しますね。

落合:先ほど重力の話をしましたが、これは結構根本的だと思っています。 僕の友達にコンサルティングファームで働いている友達が何人かいますが、大抵、余暇ができるとスキューバダイビングかボルタリングをやるんですよ。上下に動きたいんでしょうね、重力に抗って。「平面性からどう逸脱するか」ということに、自然と向かっているのかもしれません。

重力と建築から少し拡げて都市の話をすると、これまでの都市は「人間の写像」でしたが、インターネット以降は「インターネットの写像」になってきています。都市構造というのは総意としての人間を反映しますから、仕事に行きたいから山手線を作るし、娯楽が欲しいから映画館ができるわけです。何ができるかは経済合理性によるのです。今はそれが、インターネットに移行しつつあります。一般人が参加するインターネットは、都市を変化させようとしています。例えば食べログで優位な店が都市に残るというようなことです。これは明らかにインターネットの力で都市構造が変革されようとしています。主従関係が逆転しているのです。人間の写像であった都市が、人間の思考の写像であったインターネットによって書き換えられようとしているというのが、2010年代のキーテーマの一つです。そのポスト都市論をきちんと考えなければいけません。我々は可視光光線で塗りつぶしたモノリスの中に生存している。これは他の生物から見たら2001年宇宙の旅の猿みたいに見えますよ。

デジタル失業や機械との競争といったことについてどう考えますか。人間は人間がやるべきことに集約していくというような。

落合:人間は人間のインターフェースでしかなくなります。人間は人間と話すのが一番楽ですから。人間の役割は責任を取る存在と、ヒューマンインターフェースとして残ります。コンビニの店員がイヤホンをして、話し掛けられたことにコンピュータの指示に基づいて返答するというような世の中にはなると思います。人間が失業するかと言われれば、そこにいた中間管理職という非効率的なゲートはなくなりますが、ゲート以外は残るでしょう。現場で働く人はいつまでもいると思います。プログラムを書けないプログラム会社の人はいりません。頭を使えないコンサルもいりません。コンピュータと人間のどちらが使えるかというと、それは人間のほうがまだしばらくは強いと思います。ただ、エクセルをどうまとめて、どう工程管理するかというようなところは頭を使っているわけではありません。そこには、テクノロジーはありますがアートはありません。コンサルタントにもアートがあるかもしれません。アートの領域を駆使して問題を解決していけば、残るでしょうね。いずれにしてもインクリメンタルなことはコンピュータの完全な得意分野なので、そこではコンピュータと勝負しないということがポイントです。キャリアのことを考えると、自分が何をやりたいかを明確したほうがいいと思います。右上を見ている人に人は憧れます。つまり、ビジョナリーです。

経産省のIPAから未踏スーパークリエータに認定されていますが、落合さんにとって未踏はどういう意味のあるものでしたか。

interview_ochiai落合:未踏は、民間ではない取り組みで初めうまくいったインキュベーションだと思います。ハッカソンは短期的すぎですし、起業というのは長期的すぎです。その間にあるプロジェクトベースの開発競争というのが世の中にはありませんでした。それをやったということは、非常に大きな意義だと思います。それを人材育成と位置付けたことも、非常によい先見性があったのではないでしょうか。

コードを書ける人間の中で、「自分は何をしなければいけないのか」という根本的なところに立ち戻ります。そうなると人によっては、グラフィカルなものを作ったり、性能で勝負するなど、最終的なアウトプットがばらばらになって評価基準が揃わないわけです。けれども、「すごいものはすごい」のです。「すごければスーパークリエータに選ばれる」というシンプルな評価を持ち込んだことに、未踏の意味があります。権威は採点基準を持ち込みますが、権威でない限りは、「すごい」以外に評価基準がないのです。これはインターネットによってコンテクストが多様化して、誰も同じ文脈で物を見ていないからです。けれども「すごい」だけは、伝わりますし、未踏は隣の人と「すごい」という基準で勝負できるのが面白いところだと思います。そして、そのすごさきちんと伝えられるということはとても重要であり、未踏ではこれが求められます。そのような場を一度経ると、インパクトの強い人材になれると思います。

落合さんは今でも未踏との関わりはあるのですか。

落合:ブースト会議といって、未踏のプレゼンを聞いてフィードバックする場があるのですがそれにはほとんど参加しています。未踏に関するコミット率は高いと思いますよ。ここでする話は、「それじゃ思想的なインパクトがないよ。それならビジコン(ビジネスプランコンテスト)に出ればいいじゃん」といったことです。未踏はハッカソンとインキュベーションの中間地点であって、何をやってもいいんです。ただ、インパクトが重要なので、何が面白くて何がつまらないかをきちんとわかっていないとダメだと思います。若さというのは時間によって成り立つものなので、若くしてすごい人になるには時間をコミットしなければいけないので、とにかくやったほうがいいと、学生にはよく言っています。

企業にとって、未踏出身者はどう活きるでしょうか。

落合:以前何かの記事で、未踏出身者を採用しても即戦力にはならないといったことが書いてありました。現在の未踏は一定以下の年齢でないと応募できないという制限もありますから、すぐにプロとして活躍できる人ばかりではありません。ただ、そういう学生でも原石としてはかなりいけているので、「未踏出身者をどうすればプロにできるか」ということが会社としては重要です。未踏でスーパークリエータだからといって、早くコードが書ける保証があるわけではありません。ただ、「すごい」を基準とした競争を生き抜いているので、何をやればいいのかを自分で考えられる人です。それはとても貴重な人材だと思います。そのような人を入れて教育するなり、チームに置いておくことのメリットは絶対にあると思います。

面白いからその人に投資するというのは悪くないと思います。やりますよ、きっと。21世紀はやりたいことがあることが重要です。コンピュータにはモチベーションがありませんから。知識欲求はなく、インターネットにつながっていれば全ての知識は共有されているわけです。コンピュータにとって自然なことや、コンピュータ全体としてやりたいことはありますが、一台一台にとってやりたいことというのはありません。
だからこそ、やりたいことがある人にやらせてみるということが非常に大切だと思います。モチベーションに見合う自由と責任。それが遺伝子ガチャを持つ我々の面白さだと思っています。

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